石鹸の歴史
石鹸の歴史は古く、紀元前3000年代のものとして復元されたシュメール(バビロニア南部の地名)の粘土板には、薬用としての石鹸が登場しており、その製法まで書かれている。旧約聖書にも宗教的指導者によって、衣服を洗い、身を清めるために、灰汁とソーダが用いられたことを示す箇所がしばしば見られる。
紀元前1000年代のローマ時代の初期に、サプルの丘でいけにえの羊を焼いて神に供える風習があり、したたり落ちた脂と木の灰(アルカリ成分)とから自然に石鹸が出来、土にしみ込んでいた。この土は人々から汚れを落とす不思議な土として大切にされ、このサプルがソープ(soap)、すなわち石鹸の語源になったと言われている。
さらに、ローマ時代を物語るものとしては、ポンペイの廃墟から、洗濯所と洗濯様式を示す壁画が発見されている。
8世紀に入ると、ヨーロッパにシャボン炊きの職人が現れた。13〜15世紀になって、地中海沿岸の最良の油脂資源オリーブ油と、原料ソーダ源としての地中海の海藻を中心に、その石鹸技術は地中海を西に移動した。イタリアではベネチア・サボーナ(シャボンの語源)、スペインではカスチール、さらにはフランスのマルセーユ(良質石鹸「マルセル」の語源)へと拡大した。(教育社新書、中江剛毅著「石鹸・洗剤業界」より。)
マルセイユ石けんの歴史
さて、フランスのプロヴァンス地方に定着した石鹸作りが飛躍的に発展したのは、17世紀、太陽王と呼ばれたルイ14世の時代です。「バターも脂肪(おそらくは、動物性脂肪)も含まない、オリーブオイルの石鹸が欲しい!」と国王は言われたそうで、その望みはやがて国王の命令として公布されることになります。この命令はルイ14世がプロヴァンス伯であったことや、当時石鹸産業が盛んになり、獣脂を原料とした粗悪品が出回るようになったため、これを放逐するための政策的なものであったとも考えられます。いずれにしても国王の勅令は1688年10月5日に公布されました。
太陽王の勅令は原料、製造方法、製造期間等、項目ごとに厳しく規制し、この規制に合致した石鹸にのみマルセイユ石けんの呼称を認めました。 原料には純粋なオリーブオイルを使用し、新しく採取されたオイルはシーズン中に使用すること、製造方法は、いわゆるマルセイユ製法によること、6月、7月、8月は製造を禁止すること等...
規制に違反した場合は製品没収、重ねて違反した場合には、追放という厳しい処分まであったそうです。
厳しい基準と引き換えにプロヴァンス地方に独占的な石鹸製造権を認めた「王家の石けん」は「太陽王の石けん」、「マルセイユ石けん」ともてはやされ、一世を風靡します。マルセイユ石けんは「良い石鹸」の代名詞となり、その名は遠く日本にまで及んでいたというわけです。
やがてパリーリヨンーマルセイユが鉄道で結ばれ、輸送手段が増えると、石鹸産業は一挙にブームを迎え、1880年から1912年にかけて黄金期を迎えます。
1900年パリ万博では製油と石鹸製造の実績が認められて、サロン・ド・プロヴァンスは金メダルを授与されています。
第一次世界大戦と第二次世界大戦、20世紀の二つの大きな戦争はプロヴァンスにも影響を与えました。戦争の直接的な被害に加えて、植民地の独立は原料の輸入を著しく困難にしました。また戦争で失われた労働力を一気に回復することは難しく、プロヴァンス地方の石鹸産業は次第に衰退していきます。石鹸つくりは重労働ですから戦争で失われた男手を補う女性たちの労働は大変なものであったと思われます。
加えて、大戦を通じて力をつけたアメリカの集約的工業規模の経営は、原料を自然に求め、時間と人手をかけたプロヴァンス地方の石鹸産業の基盤そのものを揺るがすことになります。
帰ってきたマルセイユ石けん
「技術の進歩には、人にやさしくないものもある」、その通りです。戦争が終わって、追いつけ、追い越せと進歩と発展を求めてきたものの、求めていたものが何か違うと考え始めた時期があります。自然に沿って生きること、人間らしさをもう一度考えようとした時期です。その頃から人々のマルセイユ石けんに対する関心が再び高まってきました。精神的なストレスや、環境の変化に起因する健康や肌の問題。人々が優しいものを求め始めたことは確かです。といってもマルセイユ石けんビッグバーは薬ではありません。ごく普通の石鹸です。自然の素材から手間と時間をかけて、年季の入った職人さんたちが真面目に作るごく当たり前の石鹸です。この当たり前が段々少なくなる。私たちにとって、マルセイユ石けんとは石鹸であって石鹸以上のもの、普通の日々を大切に生きるためのバックボーンのようなもの、なのかもしれません
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